梶村自得陶展に寄せて
樋野康郎
人が人と出会えるのは稀(まれ)である。梶村さんのことは以前から耳にしていたのだが2年ほど前に私の個展に来ていただいたのが最初だったように思う。 人に対して臆病な私は、梶村さんにも同様の臆病さを感じていたのかもしれない。その後何度か会うが、焼き物の話や絵の話はほとんどなく、いつも昆虫の話や魚の話ばかりになってしまう。物作りにたずさわる人の多くが自然界のほうへ目を向けてしまうのは本能的に危機感を感じてしまうせいなのだろうか。 彼の家に行くと小さな鉢の中に何年もメダカが生き続けていたりして、その小さな生態系や彼の周囲においてある雑多なものを見たりすることで私には彼を理解するのに十分な気がしてお互いの美意識については話さないのかもしれない。
彼の作品を見ていると一見不可解な部分が唐突に現れ、見る側に戸惑いに似た新鮮な感覚を与えてくれる。表現が抽象的であれ具象であれ一応私たちは何かを具象化しようとするのだけれども、そのことは、現代という人間の存在意識そのものが問われているような時代にあって、どうやら自らの個性によることよりも、日々の生活感や身の回りの自然界からの啓示によるところの方が大きいのではないかと思う。
彼自身、自らの中に、自分では持て余してしまうようなものがあり、そうした原初的な感覚と、時代を敏感に感じてしまう感性が混とんと共存してしまっていることから来るのではないだろうか。
私たち作る側の人間として常に彼のような敏感な感覚を持ち続け、精神の辺境に身を置き続けたいものだと思う。
(画家・昭和20年島根県生まれ)
2002 .1/3 日本海新聞掲載
梶村自得陶展に寄せて
樋野康郎
人が人と出会えるのは稀(まれ)である。梶村さんのことは以前から耳にしていたのだが2年ほど前に私の個展に来ていただいたのが最初だったように思う。
人に対して臆病な私は、梶村さんにも同様の臆病さを感じていたのかもしれない。その後何度か会うが、焼き物の話や絵の話はほとんどなく、いつも昆虫の話や魚の話ばかりになってしまう。物作りにたずさわる人の多くが自然界のほうへ目を向けてしまうのは本能的に危機感を感じてしまうせいなのだろうか。
彼の家に行くと小さな鉢の中に何年もメダカが生き続けていたりして、その小さな生態系や彼の周囲においてある雑多なものを見たりすることで私には彼を理解するのに十分な気がしてお互いの美意識については話さないのかもしれない。
彼の作品を見ていると一見不可解な部分が唐突に現れ、見る側に戸惑いに似た新鮮な感覚を与えてくれる。表現が抽象的であれ具象であれ一応私たちは何かを具象化しようとするのだけれども、そのことは、現代という人間の存在意識そのものが問われているような時代にあって、どうやら自らの個性によることよりも、日々の生活感や身の回りの自然界からの啓示によるところの方が大きいのではないかと思う。
彼自身、自らの中に、自分では持て余してしまうようなものがあり、そうした原初的な感覚と、時代を敏感に感じてしまう感性が混とんと共存してしまっていることから来るのではないだろうか。
私たち作る側の人間として常に彼のような敏感な感覚を持ち続け、精神の辺境に身を置き続けたいものだと思う。
(画家・昭和20年島根県生まれ)
2002 .1/3 日本海新聞掲載