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過去の展覧会

 


 


泉本基夫写真展「Border-less part3」
4/15(Fri)〜4/19(Tue)

「泉本基夫写真展に寄せて」

 

「写真」とは何だろう。絵画との共通点は、限られた二次元空間に表現すること程度の認識しか待たない私ですが、若い頃は現像液の中から静かに画像が浮かび上がってくるあの神秘的な喜びを密かに味わったこともあり、街の写真展もよく拝見する。

泉本基夫さんとは以前ある高校の同僚であり、写真のことより現代美術のお話をよく伺った。写真の工程には、撮る・プリントする・見せるの三つがある。写真界ではまだ主流ではないが、従来のフィルム写真からデジタルへ、紙焼きからインクジェットプリントへ、ギャラリーでの展示からWeb上での発表と大きな流れがみられ、もはや無視し続けることは出来ない状況にあるのではないか。

絵画でも写真でも、きれいな花や風景をきれいに表現する。これも良しとするが、特別な一場面ではなく、ごくありふれた「私の日常空間」をそれぞれの作家の感覚でどのように表すかが作品の面白さであり作家の個性である。展覧会場で目にする作品の中には、咲き誇る今が盛りの花々を大写しで表したものや、観光名所の紹介のような作品、そして、写真を撮るためにわざわざ並べ替えたものなど作者の意図やねらいがあまりにも強すぎ、食べたくないものを無理やり食べさせられるような感じのものがある。

さて、今回の泉本基夫氏の展覧会は「ボーダーレス・パート3」というタイトルで、エジプト観光ツアーでの取材であるが、観光名所をねらった作品がない。名所に背を向けたものや、車窓の流れる風景、人物も風景の点景でしかない。レンガ積みの商店や民家、崩れかけた窓や扉、道を歩く人、洗濯物など現地の生活風景もあるが不思議なことに、私にはそこに生活臭が感じられないのである。たぶん泉本氏は、その場の雰囲気を表現したいのではなく、自分自身を表現しようとしたのではないか、あるいはいずれの感情も持たないでハッとした瞬間的なひらめきのみでシャッターを切ったのではないかと思われる。泉本氏の言葉に「普通の風景を写したい」というのがあるが、これには二つの意味があるようです。日常的な風景を写したいという意味と、特別な感情でなく普通に写したいというものです。いずれにしても、ひとたび作品となった時点で普通でなくなってしまうのが厄介なことですが。


2階のdueではパピルス紙に印刷したものや、なんと驚くことか掛け軸に仕立てたものもあり、80歳近い高齢ながらその冒険心は見事で気持ちがいい。泉本作品は、先生の繊細で心優しい人柄そのままの自画像といえるものである。

 

                         森絵画研究所  森 茂樹

                          (原文掲載)


 

これは2003年1月、エジプトを旅行したとき撮影したものです。

タイトルは“Border-less Part 3” です。

2003年5月、個展“Border-less Part 1,Part 2“ を開催しました。その前のことです。個展をご覧いただく方々のために「私の写真撮影の思い」を文章にして会場に置くのが礼儀であり責務でもあると思ったのです。そこで毎朝考えました。けれども、何も出てこないのです。思いはいっぱいあったですが言葉に出来ないのでした。かくして2、3か月が過ぎました。ある朝「自分の思いを言葉に出来ない。お出でくださる方々には申し訳ないけれども、あきらめるしかないなあ」と思ったのです。ところが次の瞬間、頭に「ある文」が浮かんだのです。「これがインスピレーションというものかどうかわからないけれども、兎に角、書き留めておこう」と思いました。それから頭に浮かんだものを一気に書きました。不思議なもので頭には全てが浮かんでいるのです。それはビルの屋上から下に広がる街並を眺めるようなものです。すべてが見渡せるのです(これは質感の1種だと思われます)。急いで書かなければ頭から消えていく部分が出てきそうでしたので、随分急ぎました。しかし、書き切れませんでした。何かが残りました。それは、書く間に私の頭から消えたのか、最初から「もやもや」としてわからなかったのかわかりません。後者については、心の全てを言葉に出来ないのは当然だとおっしゃる方があるかも知れません。

かくして、次の「表出と浸透」という文が出来上がったのです。書いた文を読んでみて自分の撮影の思いや態度をよく表していると思いました。その時、私のコンセプトの全てではないかも知れないけれども、大部分を占めていると思ったのですが、はっきりしたことは分かりません。今回、「心のもやもや」とした部分も表現したいと考えたのですが表現できたかどうか分かりません。

さて、作品は、4章に分けて展示しています。前回の個展では「普通の風景」をまとめませんでしたが、今展では、“4章 Commonscapes”として展示しました。「ごく普通の風景であるけれどもなんとなく写したい」とか「心をひかれる」ということがありました。このような写真には「普通の風景」より微妙に変わったものもあれば、全く普通のものもあります。注意しなければ見過ごしてしまいそうなものが多いのですが、私の気持ちからすれば、発見の喜びがあります。「振り返ってみますと私の「普通の写真」は1999年に始まっています。

私の場合、「普通の風景」の撮影は「変化の手始め」のようにも思われます。

なお、作品は全てゼラチン・シルバー・プリントです。
                           (2005年4月15日  泉本基夫)

表出と浸透

“撮影という行為を対象との関係において考えて”みましょう。

写真を撮るという行為は、カメラによるのか、自分自身によるのか、それとも対象物によるのか不明です。少なくとも、それらが相交錯していることは認めてもよいでしょう。

被写体を選んで撮るとき、それは自分自身を撮っていると私は考えています。

被写体自身がその内面の“表出”と考えることができます。つまり被写体も個性の表れだということができます。しかし、我々はそれに無関係に解釈を加えて勝手気ままに写すのです。そして、1つの世界を作り上げます。

先ほどから自分自身という言葉を使っていますが、自分自身は不可解なものです。しかし、それを考えなければ作品は出来ません。

 

写真は自分の中の無意識の産物だと思います。無意識は何物にも左右されず、自分勝手に動くものです。個性もそこから出ていると思います。私の意識は私の無意識の動きを察知したり、コントロ一ルをしたいと思っています。しかし、それは幾分かはできるかも知れませんが、大方の部分については無理なことです。

撮影という行為は無意識に任せるべきです。そうすると、今度は逆に意識との関係で悩みます。しかし、やはり私は“自分の心の声”すなわち、無意識に耳をすませて撮影すべきだと考えています。そうすることによって、私たちの無意識はその被写体を勝手に解釈し、その内面に“浸透”していくのです。

 

かくして、“撮影という行為を対象との関係において考える”と、それは“表出と浸透”と表現することができます。表出は被写体の行為であり、浸透は自分自身の行為です。
                           (2003年2月 泉本 基夫)