心の中の不思議な空間表現
山本恵三
小寺さんが三回日の個展をされる。前回から4年ぶりの個展である。
その間、市展や県展やラムール会展等に出品されて、旺盛な制作を続けてこられた。
市展では、連続四回の受賞を重ねられて、今年度から無鑑査作家に推挙された。
小寺さんは、中学校の美術教師として勤めておられますが、「教師をしながら制作をしいる」小寺さんではなく、「制作をしながら教師をしている」教育者であってほしいと思い、願っている。
私は、小寺さんに、すます制作活動を活発に行っていただくことを期待している。
教育現場における教師の存在は、その教師が、人間として、教課担任としていかに生きているかにある、と私は思っている。
小寺さんは、市展、県展などだけではなく、関西独立展にも毎年出品しておられる。このことは、国語や数学の教師が学会に論文を発表するのと同じことだから、教師が自分の専門教科の研究に精根を注いでいる姿が生徒たちの心に移行する点において重要なことであると考える。
ところで、今回の個展では、130号、100号、80号の大作に10号からサムホールの小品と、デッサン、カットなど30点が展示される。
大作はどれも「想(おも)い」が主題となり、裸婦で・構成されているが、それにせいぜい猫や建物が取り入れられて小寺さん独自の空間をつくりだしている。
案内状に使われている100号の「想い」その特徴がよく表れていると思われる。
足を床にくずして横向きに座っている人、台に腰かけて足を交差してひざに手をのせている人、ひじ立て枕をして背を見せている人。デッサンをもとにいろいろなポーズを思うように構成した画面は自在で、抑制された色彩の中に温かい生命の営みを内包している。
裸婦とフィレンツェ風景のイメージが重なった赤の微妙な調子が魅力的だし、ロマンチックな雰囲気も感じられる。
何年か前になるが、私も小寺さんたちとフィレンツェに旅行したことがあるのでその時の想いが静止しているような感じがする。その他の作品も、一貫して裸婦で構成されているが、あらゆる角度、あらゆる向きで描かれ、赤の複雑なグラデーションによって自分の想いを表現しておられる。
絵を描く者にとっては、キャンバスに向かうときだけではなく常に、何を描こうとか、どのように描こうとか、自分がどういうふうに絵をかいて生きていくかということを考えておくことは大切なことだと思うが、小寺さんにはそれがある。
小寺さんは、裸婦や人物デッサンを根気強く続けでおられて、それが制作の根底にあり、ものを見て、感じて見ることから自分の表現を進めておられるので、10号の「グラジオラス」や8号の「ひまわりの人」のように、一つの線を引いたにしても、色をのせるにしても、自分の心の中にあるものが自然と不思議な空間をつくりだしている。
このことを、裸婦や人物のデッサンを見ながら注目していただぎたい。それから、今年も一年生から六年生までの「なつのとも」の児童の詩につけられたカットの原画が出品されている。児童の詩の心の奥深く響いてくるイメージがさわやかな彩色で描かれていて快い。たくさんの人に見にきていただけることを祈っております。
(独立美術協会会員)
日本海新聞2005/7/27(水)掲載
心の中の不思議な空間表現
山本恵三
小寺さんが三回日の個展をされる。前回から4年ぶりの個展である。
その間、市展や県展やラムール会展等に出品されて、旺盛な制作を続けてこられた。
市展では、連続四回の受賞を重ねられて、今年度から無鑑査作家に推挙された。
小寺さんは、中学校の美術教師として勤めておられますが、「教師をしながら制作をしいる」小寺さんではなく、「制作をしながら教師をしている」教育者であってほしいと思い、願っている。
私は、小寺さんに、すます制作活動を活発に行っていただくことを期待している。
教育現場における教師の存在は、その教師が、人間として、教課担任としていかに生きているかにある、と私は思っている。
小寺さんは、市展、県展などだけではなく、関西独立展にも毎年出品しておられる。このことは、国語や数学の教師が学会に論文を発表するのと同じことだから、教師が自分の専門教科の研究に精根を注いでいる姿が生徒たちの心に移行する点において重要なことであると考える。
ところで、今回の個展では、130号、100号、80号の大作に10号からサムホールの小品と、デッサン、カットなど30点が展示される。
大作はどれも「想(おも)い」が主題となり、裸婦で・構成されているが、それにせいぜい猫や建物が取り入れられて小寺さん独自の空間をつくりだしている。
案内状に使われている100号の「想い」その特徴がよく表れていると思われる。
足を床にくずして横向きに座っている人、台に腰かけて足を交差してひざに手をのせている人、ひじ立て枕をして背を見せている人。デッサンをもとにいろいろなポーズを思うように構成した画面は自在で、抑制された色彩の中に温かい生命の営みを内包している。
裸婦とフィレンツェ風景のイメージが重なった赤の微妙な調子が魅力的だし、ロマンチックな雰囲気も感じられる。
何年か前になるが、私も小寺さんたちとフィレンツェに旅行したことがあるのでその時の想いが静止しているような感じがする。その他の作品も、一貫して裸婦で構成されているが、あらゆる角度、あらゆる向きで描かれ、赤の複雑なグラデーションによって自分の想いを表現しておられる。
絵を描く者にとっては、キャンバスに向かうときだけではなく常に、何を描こうとか、どのように描こうとか、自分がどういうふうに絵をかいて生きていくかということを考えておくことは大切なことだと思うが、小寺さんにはそれがある。
小寺さんは、裸婦や人物デッサンを根気強く続けでおられて、それが制作の根底にあり、ものを見て、感じて見ることから自分の表現を進めておられるので、10号の「グラジオラス」や8号の「ひまわりの人」のように、一つの線を引いたにしても、色をのせるにしても、自分の心の中にあるものが自然と不思議な空間をつくりだしている。
このことを、裸婦や人物のデッサンを見ながら注目していただぎたい。それから、今年も一年生から六年生までの「なつのとも」の児童の詩につけられたカットの原画が出品されている。児童の詩の心の奥深く響いてくるイメージがさわやかな彩色で描かれていて快い。たくさんの人に見にきていただけることを祈っております。
(独立美術協会会員)
日本海新聞2005/7/27(水)掲載