過去の展覧会

銅版画と油絵・姉妹展
2006.5/25(Thu)~5/30(Tue)

■油絵 船井淑子:鳥取市在住 
■銅版画 安田みつえ:東京都在住

 

歌をもて君を語らん

安田みつえ・船井淑子姉妹展に寄せて

手皮小四郎

 

 新緑のベンチで安田みつえのエッチングの画帖をめくっていると、ふいに身肉(みしし)の襞(ひだ)深くをひとつの歌の調べが通過していくのを覚えた。

〈むくろじの森の冷たさ すきとおり魚ともならん ひとりを待ちて〉(馬場あき子)

 頭上を蔽う青葉若葉の茂りと、膝の上に広げた安田の作品が互いに呼応し合って、ぼくにこの歌を呼んできたのだろう。開いたページの一枚は「ゆらゆら」と題した、蒼い水底の絵だった。

 伸びをするように五肢を開き切った水すまし、百合の花芯から覗く能面のような女の横顔、眉のある菱形の魚、巻き貝、ヒトデ……そして、歪な点と線からなる名づけようもないものたち。それらが水の中に遊泳し、一面澄みわたっている。無秩序なようでいて、しかしその一つ一つはそこに在るべくして配され、しかもそれぞれが持つ固有のリズムを放射し合って、いつか見る者を静澄な諧調へと誘っていく。

 安田が絵で立つために上京して長い歳月が経つ。彼女はその間にたまゆら出合う至福の刹那、聖なる時を、こうして水の膜の彼方に封じ込めてきたのだと思った。自分を水底の魚に変身させるしか支え切れない思い、留めおくことのできない美しいものがある。歌詠みが歌を詠み、少女が押し花をするように、安田は線を引き淡い色を刷(は)いて、その一葉一葉を水のページに綴じてきたのだと思う。

 花々の油彩を描く船井淑子は安田の姉である。「きれいな花もいいけれど、枯れゆくものに心を魅かれる」と船井は言う。枯れかけたガクアジサイ、寒菊、草……。〈十一月枯れゆくは華咲くごとく〉と平井照敏は詠んだ。枯れゆくものの美しさがわかりだしたのは、ぼくはやっと近年になってからだった。

 ところで、対照的な姉妹の作品の向こうに、ぼくはある一人の男を透視している。先日、智頭町が町屋や寺を公開するというので行ってみた。案内された寺でボランティアの方は障壁画について解説したが、本堂上部に架かっている石仏の絵に触れることはなかった。その絵は二人の父、田中瑞人(智頭町)のものだった。瑞人は五島茂門の優れた歌人で、日本南画院理事も務めた画家だった。父は少女時代の娘の眼に、今日の二人を看破していた。〈つきつめて一つのことに凝るわが性を吾子ももつらしその瞳をあやぶむ〉(「瑞人抄」)

 そしてもう一人、水底で隠し絵のように潜む影が像を結んでくる。安田の夫君知一氏である。彼はぼくの友人で、文学を語り絵を描いた。二十余年前、先に逝ってしまった。後年ぼくは長谷川利行という歌詠みの絵描きが好きになったが、利行の絵を見る度に知一君が思い出されてならなかった。「絵を描くことは、生きることに値するという人は多いが、生きることは絵を描くことに価するか」とまで言ってしまう利行。ぼくは姉妹展の一角を掠め取って、そこに利行の珠のような一首を嵌(は)めこみ、君の魂鎮めとしたい。

〈己が身の影もとどめず水すまし 河の流れを光りてすべる〉

(詩誌『菱』同人)

(原文記載)




つばき  F3                   あか・あお・きいろ