山本恵三
小寺政恵
田村恵子
寺谷 忍
松島昭子
裸婦を描く入念な観察眼
〜「感の会展」ドローイング展〜
なんとも凝ったグループ名「感の会」が、初のドローイング展を開く。「感」は、たいそう驚く時の声を意味する「あら」と読む。絶えず新鮮な驚きをもって対象を見つめ、描いていこうという姿勢の表明であろうか。出品は小寺政恵・田村恵子・寺谷忍・松島昭子・山本恵三の五人による四十点。
ドローイングは素描、デッサンともいうが、いくつかの種類と歴史がある。対象を簡素に速写するスケッチ(クロッキー)。対象をつまびらかに観察し、研究する習作(エチュード)。本描き寸前の状態にまで完全に構図された下絵(カルトン)。
初期ルネサンスの素描は、空間と物体の明晰な境界である「線」を基本とした。これを変革したのがダ・ビンチで、明暗の精妙な表現で陰影に見えざる「精神」を喚起。さらにミケランジェロは技術を越えた主観で、「思想」的な描写にした。二十世紀に入ってピカソが素描を再興したが、それは「自己表現」の有効な手段にほかならない。
「絵画の基本はデッサン」とは山本恵三の口癖だが、「感の会」は「よく見て、感じ、描く」ことを重視するグループである。したがってそのドローイングは、速写や印象的なスケッチとは一線を画し、単なる下書きや覚書でもなく、見た目を排除した克明な描写による「習作」と理解すべきであろう。テーマは裸婦が多い。
「裸婦を描くのが、わくわくするほど好き」と言うグループだけに、筆圧・濃淡・曲折・バランスに微細な神経を払い、それぞれが学んだ見方を作品として開示している。山本恵三の柔軟でしたたかな実在感に対して、寺谷忍は強弱を留意、小寺政恵・田村恵子・松島昭子は刻むような描線で存在感を求める。やや硬く、一本調子の作品もあるが、共通しているのは対象に迫る入念な観察眼である。
人はなにゆえに裸体を描くのであろうか。神の模造である人物に理想を求めたギリシアは過去となり、すべてを露出する現代では、人間を美化する余地などありそうにない。それでも裸婦を描くのは、なお神秘な頭部・胴体・両手・足腰の成り立ちとバランスを探り、己の心と描写力を問うということか。裸婦を描くのは、己も裸になる「自画像」に等しく、自らの視点を問う行為だからである。
裸婦の魅力はスタイルにあるのではなく、人間としての美にあるのは言うまでもない。モデルも見られることで美しくなるが、そこには緊迫した時を通して、描く人と描かれる人との格闘が展開される。だから筆先は恐れ、ためらい、止まり、あるいは確信をもって走り、そして悩んでいるようにも見える。それもやむを得まい。裸体画は、そこにいる作者とモデルとの「合わせ鏡」、真実を前にしたある種の「告白」だからである。
(角秋勝治、鳥取市)
2008.3月15日(土) 日本海新聞掲載記事
裸婦を描く入念な観察眼
〜「感の会展」ドローイング展〜
なんとも凝ったグループ名「感の会」が、初のドローイング展を開く。「感」は、たいそう驚く時の声を意味する「あら」と読む。絶えず新鮮な驚きをもって対象を見つめ、描いていこうという姿勢の表明であろうか。出品は小寺政恵・田村恵子・寺谷忍・松島昭子・山本恵三の五人による四十点。
ドローイングは素描、デッサンともいうが、いくつかの種類と歴史がある。対象を簡素に速写するスケッチ(クロッキー)。対象をつまびらかに観察し、研究する習作(エチュード)。本描き寸前の状態にまで完全に構図された下絵(カルトン)。
初期ルネサンスの素描は、空間と物体の明晰な境界である「線」を基本とした。これを変革したのがダ・ビンチで、明暗の精妙な表現で陰影に見えざる「精神」を喚起。さらにミケランジェロは技術を越えた主観で、「思想」的な描写にした。二十世紀に入ってピカソが素描を再興したが、それは「自己表現」の有効な手段にほかならない。
「絵画の基本はデッサン」とは山本恵三の口癖だが、「感の会」は「よく見て、感じ、描く」ことを重視するグループである。したがってそのドローイングは、速写や印象的なスケッチとは一線を画し、単なる下書きや覚書でもなく、見た目を排除した克明な描写による「習作」と理解すべきであろう。テーマは裸婦が多い。
「裸婦を描くのが、わくわくするほど好き」と言うグループだけに、筆圧・濃淡・曲折・バランスに微細な神経を払い、それぞれが学んだ見方を作品として開示している。山本恵三の柔軟でしたたかな実在感に対して、寺谷忍は強弱を留意、小寺政恵・田村恵子・松島昭子は刻むような描線で存在感を求める。やや硬く、一本調子の作品もあるが、共通しているのは対象に迫る入念な観察眼である。
人はなにゆえに裸体を描くのであろうか。神の模造である人物に理想を求めたギリシアは過去となり、すべてを露出する現代では、人間を美化する余地などありそうにない。それでも裸婦を描くのは、なお神秘な頭部・胴体・両手・足腰の成り立ちとバランスを探り、己の心と描写力を問うということか。裸婦を描くのは、己も裸になる「自画像」に等しく、自らの視点を問う行為だからである。
裸婦の魅力はスタイルにあるのではなく、人間としての美にあるのは言うまでもない。モデルも見られることで美しくなるが、そこには緊迫した時を通して、描く人と描かれる人との格闘が展開される。だから筆先は恐れ、ためらい、止まり、あるいは確信をもって走り、そして悩んでいるようにも見える。それもやむを得まい。裸体画は、そこにいる作者とモデルとの「合わせ鏡」、真実を前にしたある種の「告白」だからである。
(角秋勝治、鳥取市)
2008.3月15日(土) 日本海新聞掲載記事